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(L版)鹿島詣・水の参道のイメージ

分類: (L版)〔00/01〕元日の水郷路・鹿島詣
(登録日: 2000/05/21 更新日: 2009/01/10)

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鹿島神宮参道としての前川


水郷・潮来の美しい景観を代表する前川は、潮来市街から延方と大洲の間を通り、鹿島に向けて鰐川へとつながり末広がりに広がっていきます。末広がりの鰐川は大船津の湖岸、そしてその背後の鹿島神宮を向いています。この川は鹿島神宮と対峙する位置にあることから、前川と呼ばれるようになりました。交通手段が車に替わるまでの長い間、鹿島詣には舟が使われ、前川を鹿島へ進む水上ルートが存在していました。前川を進むと、大船津の岸近くの湖上に立つ鹿島神宮一の鳥居が参詣客を出迎えたと言います。鰐川の末広がりの先に位置する大船津は鹿島神宮の表玄関だったわけです。

鹿島神宮・香取神宮・息栖神社は水郷三社として知られています。これら三社は、十六島が形成される以前の流海の広い流域の角地に離れて位置していますが、中心的な社であった鹿島神宮は前川〜鰐川という水域の存在によって、さらにその神格性・求心性を強めていたように思われます。
 

佐原から続く水の参道


昔、人がこの水郷地帯を一体どのようなルートで鹿島へ向かったのでしょうか。地図を眺めてみればわかるように、前川は加藤洲十二橋で知られる新左衛門川とつながり、与田浦を経て利根川に続きます。東京(江戸)・佐原方面からはもう一つのルート、利根川→横利根川→常陸利根川→前川というルートが考えられます。現在の水域が確定したのは常陸川水門による水位調整が行われるようになってからのことではないでしょうか。1980年頃の地図を見ると、与田浦周辺の水域は現在よりももっと広かったことがわかります。

これと同様に霞ヶ浦一円からの舟による参詣ルートがありました。この場合も、やはり前川を経由したはずです。
 

鹿島参宮鉄道という幻の参詣ルート


鹿島神宮の求心性は、鹿島参宮鉄道の計画にもあらわれています。鹿島参宮鉄道、現在の鹿島鉄道鉾田線(石岡−鉾田間)は、当時の石岡町の財力を背景に大正時代末期から昭和初期にかけて鹿島神宮へ参詣するための鉄道路として設けられ、鉾田まで開業したところで昭和恐慌のために鉾田−鹿島間の工事が見送られその後も完成を見ることはありませんでした。その後、鹿島開発を背景に国鉄鹿島線が開通し、さらに水戸−鹿島間の鹿島臨海鉄道が開通することにより、石岡−鉾田−鹿島の鉄道路線は異なった形で結ばれたことになります。もっとも石岡から鹿島へという意味はなく、大規模な鹿島開発によってもたらされた鹿島の新たな求心性が鉄道敷設に表れていると見る方が適切でしょう。このことも霞ヶ浦*周辺地域における鹿島の特別な位置を知る手がかりになります。
 
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