カテゴリ: 土浦市の自然/歴史/文化 タイトル: タイトル一覧・霞ヶ浦の自然 動植物・地域歴史・筑波山・自然ほか: 霞ヶ浦流域の歴史と史跡 市町村: 土浦市 (登録日: 2006/12/11 更新日: 2011/12/10)
弘法水の伝説、現存の井、照井の井・善応寺 土浦市Dec.2006土浦市に現存する弘法水伝説の井「照井の井」には現在も多くの人々が水を汲みに訪れています。炊飯、汁、茶の湯等に使用するそうです。水をくむ人から聞いた話によると都会からも水を汲みに人々が訪れるそうです。善応寺・・真言宗、寺の案内版(土浦市教育委員会昭和60年3月)によりますと創建は南北朝以前にさかのぼる。近世になり土浦城主歴代の保護を受け観音堂は寛文十年(1670)土屋数直が土浦城の鬼門除けとして寄進したもので、現存の観音堂は文化11年(1811)の再建である。建造物・・観音堂(屋根の三ツ石紋は土屋家の家紋)書籍・・・佐久良東雄書「聖観音」木額史跡・・・佐久良東雄夫妻の墓、木原老谷の墓、大久保要の墓。照井・・・・・以上土浦市誌には昔、弘法さまがここを錫杖で突いたら水が出たという言い伝えが出ています。佐久良東雄と善応寺勤王思想家佐久良東雄は文政8年良哉として常陸、林の観音寺に入寺するが師の康哉はこの照井山善応寺17世の住職として転任した。寺の湧き水は日照りが続く時もつきなかった。門前の江戸から奥州への街道は賑わいこの井によって渇を潤した。形式から臼井とも呼ばれた。寺の観音堂は寛永10年土屋数直入部の際に建立されたがその後知證大師作の観音像と共に焼失したがその後堂宇は再び再建された。康哉は文政12年再び観音寺に戻る。康哉が間もなく天保3年病死、良哉は観音寺の住職に就いたが天保6年12月住職をゆずり善応寺晋山の際、師僧康哉の書籍と位牌を持ち善応寺に移った。この年善応寺の住職となったのは7月であったが観音寺と兼務していたらしい。【佐久良東雄・・望月茂 著 大日本雄弁會講談社s16 筆者蔵より】