カテゴリ: 石岡市歴史紀行 タイトル: タイトル一覧・霞ヶ浦の自然 動植物・地域歴史・筑波山・自然ほか: 霞ヶ浦流域の歴史と史跡 市町村: 石岡市 (登録日: 2008/09/24 更新日: 2011/12/10)
常陸国分寺跡(国特別史跡 ) 常陸国分寺は聖武天皇天平15年(743)起工し、天平勝宝4年(752)に成就建立された。(常陸府中鏡)天平勝宝4年5月常陸の守は従三位、宮内卿、百済の王敬福(くだらのこにきしけいふく)が任命された。都では東大寺が時をほぼ同じくして起工が始まった。常陸国分僧寺は最勝王経10部と僧20名、封戸50戸、水田10町、寺料は六万束で近江の国と共に最高であった。塔跡の七重の塔には金宇金光明最勝王経が配置され、金堂跡の礎石、講堂跡の礎石、中門跡礎石、回廊跡、仁王門跡がある。寺域は東西約270m南北約240mの規模であった。現在の山門は一九一九年三月旧千手院が国分寺との合併により廃寺となり国分寺に移された。常陸国国分僧寺跡(金光明四天王護国之寺) 金堂跡(現在の本堂に当たる) 講堂跡 中門跡 回廊跡 塔跡(七重の塔心礎) ↑【参考】(石岡市史、石岡の歴史、石岡の地誌) 現在の国分寺境内には杉などのほか桜の木が多くあって開花時には多くの人が訪れている。金堂跡や講堂跡、七重の塔心礎の礎石が木々の間に位置し、千数百年前の国分寺の姿が偲ばれる。千手院は国分寺の近くにあった舊い寺、真言宗菩堤山來高寺千手院と称し密教の霊場として、また、信仰の中心として末寺や多くの門徒があり、国分寺とは密接な間柄であった。↑【参考】(新編常陸国誌、常府古跡案内しるべ・山口仙栄 天明四年{石岡の地誌})都々逸坊扇歌堂と都々逸扇歌の墓 扇歌は文化元年(1804)久慈郡佐竹村磯部(現、常陸太田市)に生まれた。少年時代から音曲への憧れと素質があり、5〜5年放浪の修業後家に戻り許しを請い、江戸へ向けて家を後にしたのは文政6年春(1823)扇歌20歳であった。道を奥州路にとり、道行の家々の軒で歌いながら修業した。上州路から修業しながら宇都宮に入ったころには街の人気が高くなっていた。そして、江戸へ出て音曲噺の大家、船遊亭扇橋に弟子入りし、20年後の天保9年秋寄せの上座に上がった。江戸の評判も高くなった。さらに扇歌は京、大坂方面を巡業し都々逸を広めた。江戸へ戻ったころには寄席は満員となった。お上も恐れず風刺歌を歌ったので幕府から江戸払いとなった。そして、姉の嫁ぎ先の常陸府中に身を寄せた。後、身体を崩し「今日の旅 花か紅葉か知らないけれど 風に吹かれて行くわいな」の歌を残してこの世を去った。扇歌堂は昭和8年全国からの浄財寄付によって完成された。↑【参考】(初代都々逸坊扇歌・石岡都々逸保存会案内パンフレット、境内案内板西北約600mには国分尼寺跡がある。常陸国衙は南西約1km総社1丁目、石岡小学校校庭にあって大規模な発掘調査が続けて行われている。Panoramio 常陸国分寺跡(tag)●Panoramio-常陸国分寺跡と尼寺・石岡市・(Hitachi Kokubunji temple 1000年以上前の歴史は、ひっそりとした境内に残された礎石だけですが当時が偲ばれます。
たんと売れても売れない日でも同じ機嫌のかざぐるま。汐時やいつかと千鳥に聞けばわたしゃ立つ鳥波に聞け。あきらめましたよもうあきらめたあきらめられぬともうあきらめた。 初代都々逸坊の歌