木原集落の家々はよく見ると比較的新しい家が多いようですが、集落の構造は昔から継承されているものでしょう。そして小高い台地の上に、現代的な相貌のビル、日本テキサス・インスツルメンツ美浦工場のビルが聳えています。今日では、湖岸には護岸堤がめぐらされ、舟運の衰退と共にこの歴史のある木原も変貌しました。 「川岸屋は江戸時代から船宿をやってましたが、蒸気宿になったのは私の父の代からですね。土浦だの出島から稲敷の台に来るのには昔はほとんど船ですからね、それで木原村は人の出入りがとても多かったし、繁盛もしたんです。川岸屋は船宿ですが、街道筋にも宿屋は三軒はあったでしょう。木原の浜には大きなエンマが三つありました。本河岸と中河岸と下宿河岸です。昔はそれぞれに船が入れたのでしょうが、私の覚えでは中河岸は細い小川のようになっていて、笹葉(さっぱ)舟がようやく入れるぐらいになってました。 川岸屋のあるのは本河岸ですが、幅はそうですねえ、四、五間はあったでしょうか、米を六百俵も積んだ高瀬船が出入りできたんですから。本河岸の入り口に水神様が祭られてあって、そこからエンマを入って来ると、小さい家が並んでいて、そこに船大工が住んでました。(略)私の祖父の時代には本河岸のエンマは街道近くまで続いていたそうですが、私の記憶では葦芦が生えて泥が溜って、川岸屋から先には入れなかったと思います。」(桑原節・談「第11話 蒸気宿と高田保」、佐賀純一編『霞ヶ浦風土記』、pp. 255-256、常陽新聞社) この思い出話は、さまざまに想像をかきたてますね。エンマとは、この地方の方言で、堀、水路のことです。水上交通の衰退、水路の陸地化といった変化が、この集落に変化をもたらしました。日本TIの出現は、歴史的変化の大きさを象徴的に示しています。
|