恋瀬川周辺に広がる田園地帯の平坦さは、筑波山を眺望するために自然が人々に与えた恵みではないだろうかと思い込みたくなるぐらい、筑波山の存在感を引き立たせています。ところで、この低地が『常陸国風土記』の時代、太平洋の入り海、流海(ながれうみ、現在の霞ヶ浦)の水域だったことは知られています。この入り海に沿って、舟塚山古墳などの古墳群が広がり、流域近くに常陸国府が置かれ、この地域を中心に文化が伝播していったわけです。 ところで、この低地には集落がなく、集落は周囲の台地の縁に沿って広がっています。現在でも建物は、R6沿いにあるだけですが、これはもともと、地盤が軟弱な地であることに理由の一つがあるのでしょう。
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