長勝寺の本堂は、よく見るほどに教科書などでもお馴染みの鎌倉の円覚寺舎利殿とよく似ています。曲線状に反った茅葺きの屋根は柔和で美しく、このような美しい建造物は、霞ヶ浦・水郷エリアでお目にかかったことはありません。異質な文化がこの地にもたらされたものではないだろうかという推察ができます。1185年(文治元年)に源頼朝が創建した寺という歴史的背景からは、鎌倉文化の産物であることが読みとれます。一色史彦氏の『茨城の古社寺遍路(上)』に、長勝寺・本堂(仏殿)について触れた文章があるので、少し引用してみましょう。 「石橋山の合戦に敗れた源頼朝公は、敗残の身で、このご本尊の前で一心不乱に戦勝祈願し、また心を奮い起こしてやがて政権を樹立しました。その由緒を重んじて徳川光圀公がここに手厚い保護の手を差し延べたのであります。社寺の故事来歴を調べ直して廃絶させるか、取り立てるか、果断の社寺整理を推し進める中で長勝寺は大寺としての存続が認められたということなのです。」 (一色史彦著『茨城の古社寺遍路(上)』、建築文化振興研究所、1994年、p.59) 「どうも光圀公という方は、当時の仏教界に強い不信の念を抱いていたらしいのです。(略)光圀公が手掛けた仏堂では、殆ど例外ないと云ってもよい位に床板を取り払って土間に改造されています。」 (一色史彦、同前、p.63) 徳川光圀の名前は、潮来の歴史の中に度々出てきます。光圀はこの古寺を重視していたようです。潮来が水戸藩領であり、舟運の要衝の地であったことがその背景にあります。この古寺に対しても、光圀の意思が働いていたのですね。
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