柳縄橋は、浮島と野田奈川干拓地の間の用水路に架かっています。柳縄橋を渡り、用水路沿いに進みました。干拓地(進行方向右手)は、稲田ではなくハス田です。浮島側の水田と比べると、土地の高低差もあるようです。野田奈川干拓地では、1932年(昭和7年)から1952年(昭和27年)にかけて干拓が進められました。霞ヶ浦に浮かぶ島であった浮島が対岸と陸続きになったわけです。野田奈川干拓がハス田となった背景には国の減反政策があるようです。 「農業生産に現われた最大の変化は、減反政策を契機とする蓮根の擡頭であった。野田奈川干拓を手掛けた関谷友吉が干拓地に試作したのが嚆矢といわれるが、四四年にはわずか五町の収穫面積でしかなかった。それが五三年には県下で第三位に相当する九九町に拡大し、粗生産額でも米に次ぐ第二位に成長したのである。」
(『茨城県史・市町村編III』、茨城県史編さん市町村部会、pp.640-641)
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