『信濃蚕糸業史・中巻』(1937年)には次のように記された一節があります。
本邦の養蚕が神代より始まれる事は養蚕の部に説けるが如く、養蚕あれば蚕種あるは当然の事なれども、蚕種に関する記事の国史に見へたるは第十四代仲哀天皇四年乙亥(八五五)秦始皇十一世の孫秦切満王帰化して蚕種及珍宝を献ずとあるを始とし、是を本邦に支那蚕種輸入の最初と成す。(農政類篇) ついで文武天皇大宝年中(一、三六一)常陸国蚕影山の傍に於て専ら蚕種を製造し、市場を結城の地に開きしより近郷競つて製種を試むるに至りしといふ。(下野之蚕糸業) ----『信濃蚕糸業史・中巻』(1937年) p.1
『信濃蚕糸業史』は1937年に出版されたもので、紀元節で年号が付されているため、《紀元2600年=西暦1940年》を基準に西暦換算する必要があります。第十四代仲哀天皇四年乙亥とは西暦195年、文武天皇大宝年中とは701年です。701年は大宝律令が制定された年号として日本史ではお馴染みの年号の一つです。
つまり、この記述によれば、筑波山の蚕影山で蚕種を製造し、結城でその市を開いたというのが有史で二番目に古い記録、ということになります。
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