潮来市の西円寺の墓地の一角に遊女の墓があります。潮来の歴史に触れる上でも、この遊女の墓は一度訪れたいと思っていました。お墓の撮影は差し障りもあるので、遊女の墓のみ撮影しました。「衆生済度遊女之墓」と刻まれています。この墓標の周囲にもいくつもかの遊女の墓標が立っています。墓には花が差されていますね。遠い過去に名もなく亡くなった人への地元の方の心遣いが伝わってきます。墓の後ろには、潮来の遊女の絵のパネルがありますが、古くなってしまって何が描かれているのかはよく見ないとわからないぐらい陽に灼けてしまいました。「江戸に行く船、帰る船。遠近の遊客が増えるにつれて、潮来女郎と花街のことが、広く国内に流れていった。 しかしこの町に働く女郎達は、享保の例でみると、実人員八五人で、年間二万四二五〇人の客をとったというから、一日平均〇・八人の割になる。(略)これらの女達は、自ら好んでこの世界に入った者はほとんどなく、貧乏、借金、親の怠惰、のっ引きならぬ義理といったもので身を苦界に沈めた娘や若い人妻だった。」 (中村ときを著『水郷風土記』、筑波書林、1981年、pp.161-162) 今は昔の話ですが、墓の存在が、舟運で繁栄した潮来の裏面史の証言ともなっています。
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