泳げる霞ヶ浦
霞ヶ浦水運の歴史
地域: 霞ヶ浦
(2003/11/30 更新日: 2018/08/27)
2003年11月15日(土)10:00〜13:00 京成マリーナ〜霞ヶ浦(ホワイトアイリス号)
霞ヶ浦水運の歴史1 江戸時代(水戸黄門の頃)霞ヶ浦は、浅間山の噴火による土砂で河口付近が閉ざされ淡水湖であった。 常陸利根川は川幅3mくらいの小河川で、船で航行するには不可能な川であった。その為佐原が船の集荷地となり横利根川を通り江戸へ物資を運んでいた。 潮来付近は小さな運河(えんま)が縦横に走り、まさに東洋のベニスであった。
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▼01 霞ヶ浦水運の歴史1 |
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霞ヶ浦の歴史:縄文〜明治時代 縄文時代、霞ヶ浦は海とつながっていました。沿岸ではシロハマグリが採れ、陸平貝塚や上高津貝塚が有名です。当時から舟による交易は盛んに行われ当時(奈良)の大都会石岡の国府へ物品を運んでいました。 明治になり淡水湖になった霞ヶ浦は、洪水多発地帯でした。昭和に入り関西の阪神電鉄系の会社が、常陸利根川の掘削を開始し、幅数メートルの小河川が幅数百メートルの大河川に変身しました。 洪水の水はけは良くなったのですが、逆に海から塩水が押し寄せ塩害で周辺の米は全く取れなくなりました。国への陳情が実り昭和38年常陸川逆水門が出来ました。
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▼01 明治時代の霞ヶ浦 |
▼02 霞ヶ浦の歴史 |
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霞ヶ浦を疾走した船の勇姿
さつき丸〜石川島播磨製、喫水線が60cmという 浅いのが特徴。この大きさ(全長70m、155トン)でこれだけの喫水線の船は他にない。 http://homepage3.nifty.com/hal7/
あやめ丸〜水郷汽船の経営が悪化しバス6台と売却される悲運の船。
浮島丸〜戦時中、鋼鉄が入手できず木製の高速船が就航、エンジントラブルのため度々欠航。
かしま丸〜豪華客船、瀬戸内海から紀伊半島を通る途中で大風に会い、知多半島に避難した。後で伊勢湾台風であることを知る。喫水線が1m60cm以上あり霞ヶ浦での就航は無理。
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▼01 霞ヶ浦を疾走した船の勇姿 |
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かつての遊泳場
昭和30〜40年代の霞ヶ浦の遊泳場の写真。 浮島、麻生、天王崎。 http://homepage3.nifty.com/hal7/
その後、水質の悪化により遊泳場は閉鎖。
コンクリート護岸提が出来て、砂浜も水生植物もなくなりました。 安全な生活と引き換えに、豊かな自然環境が失われました。
もう一度「泳げる霞ヶ浦」を取り戻すために、どうしたらいいか、一人一人の問題として考えてみましょう。
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▼01 かつての遊泳場 |
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