高校を卒業して以来、土浦からは久しく遠ざかっていました。常磐線の電車に乗って上野と実家の最寄りの駅、神立駅との間を数多く往復し、また、数少ない機会ながら土浦駅で乗り降りすることはありましたが、その頃の土浦は単なる通過点でしかありませんでした。土浦の町に意識して接したのは、『マッピング霞ヶ浦*』を始めて間もない1997年5月が初めてではなかったかと思います。土浦はこんなに狭く、ごちゃごちゃとした町だったのだろうかという幻滅が、その時最初に感じたものです。また私が知っている頃の昔と比べても寂れてきたという印象は否めませんでした。ところで、土浦に関する文献は地元の出版社から多数刊行されています。文士が多いというのは、おそらくこの町の文化風土によるものなのでしょう。土浦の古い町並みを保存しようとする市民の活動が行われていることも知っています。こうした情報に接する度、土浦という都市の現実の姿とのギャップがさらに増幅してきました。土浦は何か選択を間違った、というのが、そこであらわれてきた私の問題意識です。川口川の埋め立て、土浦高架道の圧迫感と暗さ、霞ヶ浦湖岸の港町に造成された住宅地、狭くくねったままの町中の道筋、遅きに失した古い町並みの保存、など、全てが後手に回って今に至ったという印象を受けます。元々、霞ヶ浦湖岸の湿地帯、田圃だった軟弱な土地の上にこのように市街を拓いてしまってよかったのだろうかという、いらぬ心配すら抱きます。
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