土浦城下の一番の繁華街を形成していたのが、現在の中城通りです。霞ヶ浦湖岸の港橋からここまでずっと旧川口川の川筋に沿って土浦市街を移動してきました。昔は、舟で川口川を上り、桜橋近くの岸で舟を降りて旧城下の繁華街・中城町へと買い物やビジネスに人が訪れたのでしょう。こうやってみると改めて、土浦という町が霞ヶ浦湖岸の湿地に取り囲まれ、水辺環境がこの辺にまで迫っていたことがおぼろげながら実感できるようになりました。土浦城(現在の亀城公園)の西側にまで湿地帯や沼地が及んでいたことを想像すれば、この中城町周辺が、さながら水に浮かぶ都市という様相を呈していたのでしょう。陸路らしい陸路はかつては、水戸街道一本しかなく、同じ土浦の東崎からは舟で川口川を迂回して中城町へ来る以外にルートがない状況だったようです。水戸街道は、土浦という島に架かった長く大きな橋というイメージで捉えてみることもできます。これから転じてその後の歴史を見れば、現在の土浦市街がかつての霞ヶ浦の湖上?に展開していったという事実が改めて理解されてきます。旧中城町(現在の土浦市中央一丁目の一部)には、古き城下町の面影を残す建物を保存し再生する「まちかど蔵」があります。中城と言えば、江戸中頃からの呉服店・大徳商店が大きな店舗でした。現在の大徳は亀城通り(駅前通りから続く大通り)に面していますが、本来の店舗はこの中城通りに面しています。この旧大徳の建物は現在に残り、「まちかど蔵」の一つとして再生されたようです。『マッピング霞ヶ浦*』を始めて間もない1997年5月に訪れた時(→「〔97/05〕土浦市・中城通り」)は、まだ「まちかど蔵」にはなっていませんでした。『目で見る土浦・石岡・つくばの100年』(1997年、郷土出版社)には、明治時代の大徳商店の店先の写真が掲載されています(p.31)。万国旗が翻っていた当時の大徳と確かに同じ建物に見えます。ただ、当時の賑わいはこの風景からは想像しにくいかもしれません。
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