霞ヶ浦*周辺地域には椎の有名な古木があります。推定樹齢700年の「出島の椎」(かすみがうら市下軽部)が有名ですが、推定樹齢500年の亀城のシイはこれに次ぐ古さではないでしょうか。この2本の古木を比べると、樹齢が200年若い亀城のシイは、まだ若い木に見えてくるから不思議です。このシイの木の隣には、土浦出身の劇作家・高田保を顕彰する「ブラリひょうたん碑」が建っています。さて、500年前の土浦と言えば、茫々たる低湿地ではなかったかと推察します。この木の古さに、土浦の歴史を知る鍵があるのではないかと直感しました。このシイが育ったのは、1400年代の後半ということでしょうから、ここにシイが育ったこと自体、人為的なものではなかったのだろうかと推察しました。この読みは当たっていたようです。 鹿島神宮の『永享富有注文』(永享7年、1435年)に記された「信太荘土浦郷」が文献上での土浦という地名の初見であるとされています。土浦城の城主だった土浦郷の若泉三郎という豪族が、土浦の水害対策として1459年から3年間をかけて筑波川(現在の桜川)の大規模な河川付け替え工事を行ったと伝えられています。「今、土浦城跡の土塁に繁茂している樹齢五百余年という「シイ」の大木(県指定天然記念物)も、時代から推してこの時代に植えられたものと考えられる。」(以上は、永山正著『土浦の歴史』、東洋書院、1982年、pp.102-103による) なるほど。低湿地に土浦という集落が誕生して以来、治水がこの都市の数百年に渡る大きな課題であったことが改めて理解されてきます。土浦という土地が形成されてから過ぎた時間とほぼ同じ時間をこのシイが生き続けてきたわけです。
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