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(L版)土浦小史・市街の湖岸への展開


分類: (L版)〔99/01〕土浦・水郷都市の面影をたどる 地域: 土浦市
(登録日: 1999/01/27 更新日: 2009/01/10)

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撮影日: 1999/01/16 土浦市川口一丁目


水に囲まれた土浦城下


享保年間の土浦城郭図(土浦市立図書館所蔵)は近世の土浦の町の姿を伝える貴重な資料であることから、『土浦市史』など、数多くの文献に転載されています。この地図を見ると、土浦藩の城下町として形成された近世の市街は、現在の土浦市大手町、中央一・二丁目、城北町、立田町がほぼその範囲であったことがわかります。城下には数多くの川筋と濠がめぐらされた水郷都市の構造をしていました。この城下に水戸街道が入り、城下の南に大町、北に真鍋が街道沿いの集落を形成していました。現在の田中一〜三丁目、文京町、千束町、生田町、桜町一〜四丁目、大和町、川口一・二丁目、東崎町は沼地、泥田、湿地帯、霞ヶ浦の流域が広がる一帯であったことがわかります。
 

川口町と川口川の繁栄


近世から近代にかけての川口川は霞ヶ浦と土浦の城下をつなぐ舟運路となり、川口川河岸には土蔵や倉庫などが建ち並び、繁栄を極めました。川口川は霞ヶ浦から現在のモール505、小網屋前を経て桜橋に続き、その先は土浦城の外濠、その他の川筋、水路につながっていました。川口町は川口川の両河岸に沿って霞ヶ浦湖岸から城下にかけて細長く延びていました。町並みがあったのは川口川沿いのみで、現在の川口一・二丁目、大和町は霞ヶ浦湖岸の泥地だったと考えられます。舟で霞ヶ浦から川口川へ入ると両側には川口町の町並みが続き、桜橋に出る、というのが、その後、昭和まで続いた水郷都市・土浦の舟運路であったようです。桜橋から始まる中城町が古くからの商業の中心地でした。
 

駅がもたらした市街の拡大


近代に入って、土浦の町の発展を運命づけたのは土浦駅の開業でしょう。常磐線は土浦の町を霞ヶ浦の水害から守る防波堤の役割を果たすものとして土盛りされて建設され、土浦駅は湖岸の埋立地に建設されました。駅が出来たことにより駅と現在の小網屋前との間に道筋ができて、今日に至る湖岸側の土浦市街が形成されました。土浦駅前から亀城公園前へと続くメインストリートがくねくねしているのは、川筋、濠筋だったところが埋め立てられて出来た道筋で、この道筋に小網屋前から駅前にかけての新たな道筋が連結したことに理由があります。さらに桜町周辺も埋め立てられ、市街地はさらに拡大しました。
 

さらなる湖岸への展開


常磐線の湖岸側は長い間、開発から取り残された区画でした。取り残されたというより、元々が軟弱な地盤の土地であったり、埋立地であったため、市街化するのは無理だったことに理由があるものと思います。湖岸側には、土浦駅東口が設けられ、道路が整備されたことにより、1980年代以降、著しく開発が進みました。土浦駅東口前に形成された市街は土浦の一番新しい市街です。湖岸へ、湖岸へ、という市街の拡大は現在も続いています。
 

水郷都市・土浦への視点


かつての土浦は、千葉県香取市(旧佐原市)の市街に今も残る近世・近代の川沿いの町並みとよく似た姿をしていたのではないかと想像します。霞ヶ浦上流の低地に城下町が開け、城下には豊かな水が縦横に入り込み、時代が下った後も泥地や霞ヶ浦流域を埋め立てていくことによって市街地を拡大した土浦は、まさに霞ヶ浦という外延によって形作られた都市と言えるでしょう。土浦城郭図と現在の地図を照合すると、近世の道筋の多くは現在に残り、川筋や濠筋は新たな道筋となり、埋立によって拡大したその時々の湖岸線がまがった道筋となって残り、現在に至っています。こうした視点から現在の土浦の町を捉え直してみると、土浦の新たな理解が生まれるのではないかと思います。
 
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