史跡 土浦城祉及び櫓門
種別 県指定史跡 指定 昭和二十七年十一月十八日
管理者 土浦市 所在地 中央一の十三の三〜四
土浦市のはじまりは、平将門によると伝えられているが、たしかな築城は、室町時代永享年間(一四二九〜一四四〇)若泉氏によるといわれている。
戦国時代、小田氏の家臣信太氏、つづいて菅谷氏がこれを奪ったが、豊臣秀吉が天下を統一して、一時結城秀康(家康の子、下総結城氏の養子)のものとなった。関ヶ原の役後、慶長六年(一六〇一)、秀康は越前へ国替となり、松平信一が城主に移封された。
その後城主は、西尾、朽木両氏を経て、寛文九年(一六六九)土屋数直(四万五千石)が城主となった。その子、政直は駿河の田中城に移封され、一時、天和二年(一六八二)松平信興(二万二千石)城主となるが、貞享四年(一六八七)再び政直が城主となり、享保三年(一七一八)には九万五千石に封ぜられ、明治維新に至るまで二〇〇年間、代々土屋氏の居城となった。明治二年(一八六九)土浦城が廃され、本丸跡は、地方行政の改変に応じて新治県庁、新治郡役場、自治会館などが設けられたが、現在は二の丸跡とともに「亀城公園」となっている。
城の規模は、本丸・二の丸・三の丸・外丸からなり、その面積は、一万四千平方米におよんでいた。
この城の特徴は掻上城で石垣が少ないこと、平城であること、また、主として旧桜川の本流と諸支流を外・内堀として幾重にもめぐらした水城でもあった。なお、大手門と搦手門が同一方向(東方)に設けられていたのも特色の一つである。
明治以来、各地の城郭建築が失われた今日、特に櫓門は、関東地方唯一のもので江戸時代前期の建造物として貴重である。
現存する遺構は、本丸正面の櫓門・裏門の霞門・二の丸と外丸の間に移建された高麗門・東西櫓の礎石などである。
なお、藩校郁文館正門(現在土浦一中構内)も残っている。
昭和六〇年三月 土浦市教育委員会
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