先取的な土浦〜稲敷〜水郷の霞ヶ浦の表社会・表文化が湖岸の低地(さらには干拓地)に形成され、保守的に思われる裏社会・裏文化の石岡〜高浜入沿岸が台地の上に形成されてきたことは面白い図式を描いているように思えてなりません。現在の低地はかつては霞ヶ浦の湖底ないしは低湿地(さらにその昔は流海の海底)だったわけですから、古い社会・文化が台地の上に形成されたのは自然の理でもあったわけです。両者の違いには、さながらヴェネチアとミラノを比較するぐらいの違いがあります。多くの古墳群が高浜入に面する堅固な台地に広がっていること、今なお古くからの集落が台地の上に連なっていることが、そうしたことを物語ってもいます。「石岡」という地名は、まさにこうした台地文化のイメージに相応しいとすら思います(石岡という地名の由来については改めて触れることにしましょう)。この地域に対しては、今日的視点からは、乱開発されずに古いものや地域の個性が比較的よく保全されてよかったという肯定的な評価がされるのではないでしょうか。では、その石岡文化とは果たして何なのか。そもそもそのようなものが存在するのだろうか。それについては、これ以降の石岡探訪のページの中で検証していくことにしましょう。
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