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古代都市・石岡への視点


分類: 〔97/08〕石岡・古代都市の面影をたどる 地域: 石岡市
(登録日: 1999/12/21 更新日: 2024/09/12)

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古代都市・石岡への視点


常陸国府であった古代の石岡は、この地域の古代の中心地でした。今でも地面を掘れば古代の遺跡が出てくるというのが石岡です。霞ヶ浦*周辺地域の中で石岡ほど古代という時代へのイマジネーションを喚起させてくれる地域はないのではないでしょうか。近世に成立し発展した土浦に中世以前の歴史をたどるのが難しいのに比べ、石岡には現在も残る近世の面影を超えて、遥か遠い古代への思いをかきたたせてくれます。石岡を中心にした霞ヶ浦*周辺を思い描いてみると、そこには土浦を中心とした現在の霞ヶ浦*とは違うこの地域のイメージが見えてきます。
 

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撮影日: 1997/08/15 石岡市若松五丁目・常陸国分尼寺跡


古代石岡を遠くしている理由


常陸国の都城として栄えた古代石岡へのイマジネーションを喚起させる要因の一つに歴史的連続の断絶があるように思います。10世紀に平将門が権力の象徴であった常陸国府を焼き払い、石岡の歴史的記憶がこれを機に一旦途絶えたことは、その後の石岡の運命を決定づけました。土浦の町が誕生するのは、平将門の時代からさらに数世紀も後に下らなければなりません。石岡は、そのような遠い昔に既に歴史的に大きな役割を演じてしまったわけです。中世から現代に至るまで、中世には小さな城(府中城)はあっても、また近世には水戸徳川家の分家の小さな藩に留まり、さらに近現代は近隣の新興都市・土浦に主役の座を譲り、現在まで一地方の小都市に留まってきました。平将門が石岡に与えたダメージの大きさが現在にまで至っているという見方はあながち間違いとも言い切れません。

常陸国府跡、常陸国分寺跡、常陸国尼寺跡、茨城廃寺跡、鹿の子遺跡、さらには舟塚山古墳などの古墳群など、点々として存在しながらも昔の面影が消失した跡を面として捉えてみることで、古代の石岡、さらには石岡を中心として形成された古代の周辺地域の姿がかろうじて見えてきます。
 

「石岡」という地名


「『石岡』という地名は、近世、『府中』あるいは『平村』ともいわれた地域が、明治2年(1869)に改称され、名付けられたものである。それ以前、この呼称は、近世期の文書の中には全くといってよいほどにみられず、改称時より530年以上も前の14世紀前半の文書の中にわずかに見い出されるのみである。」(石岡市文化財関係資料編さん会、『石岡の地名』、石岡市教育委員会、1997年、p.13)

このように『石岡の歴史』は、常陸国の府中藩が版籍奉還の際に石岡に改称されたという興味深い事実を詳しく伝えています。古代都市・国府が中央権力によっていきなりこの地に生まれ、さらに明治新政府によって府中が「石岡」という地名に突然変更されたことなど、石岡には興味が尽きない歴史な因縁があります。この点で、集落が発展して形成されたこの地域の村や町の中で、石岡には古い歴史を持ちながら、明らかに他と違う特異な一面があります。
 

見えない古代を見る石岡の探訪


霞ヶ浦*周辺の地域を訪ね、多くの地域に近世の面影を見てきました。確かに石岡もその例外ではありませんが、要所要所に古代を偲ぶ跡が残っています。それだけでなく、市街やその周辺の集落には近世よりももっと古い歴史を感じさせる佇まいがあります。霞ヶ浦*の最も古い記録『常陸国風土記』が常陸国府で編纂されたことも、石岡を中心とした古代の地域へのイメージが広がる要因の一つです。こうした興味から、現在の石岡を古代の遺跡を点で結び、その広がりをたどってみました。
 
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