下馬渡の集落を過ぎると、進行方向一面に広大な水田が開けてきました。さらにその先には、浮島の台地が迫っています。現在の風景では、手前から浮島側まで水田は平坦に続いて見えますが、浮島側は1960〜1966年にかけて干拓された西の洲干拓地です。現在の進行位置は干拓される以前は湖岸の低地だったところです。戦後しばらくの間、浮島の手前には霞ヶ浦の流域が広がり、このような陸続きではなかったことを想起してみて下さい。どのような風景が想像できますか。西の洲干拓地の浮島側には湖岸から朱色のパイプラインが長く延びています。このパイプラインは『マッピング霞ヶ浦*』でも度々紹介した霞ヶ浦大規模浚渫工事の送泥管です。美浦村から稲敷市(旧桜川村)にかけての霞ヶ浦湖岸を延々と這い、最終目的地である西の洲干拓地、さらに甘田入干拓地まで延びています。
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