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半島という陸際

分類: 霞ヶ浦*への視点
(登録日: 1998/12/07 更新日: 2024/09/12)

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霞ヶ浦*のエッジング


霞ヶ浦*とその周辺の陸地には、地形的なエッジ(台地の縁、湖岸、湖盆の縁)、社会的なエッジ(河川管理境界など)があることがわかりました。霞ヶ浦*はこれらのエッジングにより構造化された空間と捉えてみることができます。地形の成立過程、湖の成立過程についてはここではとりあえず触れないでおくことにします。
 

湖際をもたらした要因


湖が束なった湖・霞ヶ浦*は、『常陸国風土記』が編纂された奈良時代には、「流海(ながれうみ)」と呼ばれる太平洋の入り海であったことが知られています。その頃から、流域は入り江状の分岐を成しながらも、一つの大きな下流域を共有する構造を持っていました。その後、土砂の堆積や人為的な陸地化(干拓)が進んでいった結果、現在のような湖際構造に進化していったと見ることができます。下の地図は、富士見塚古墳公園にあった古代地図です。水域が毛細状に陸地の隙間に入り込んでいますね。流海沿岸がリアス式海岸であったことがわかります。
 

撮影日: 1996/08/14 かすみがうら市柏崎・富士見塚古墳(古代地図)


陸際としての霞ヶ浦*


湖を中心に捉えてみると、霞ヶ浦*には確かに湖際という特性が見られます。一方、これを陸を中心に見てみると何が見られるでしょうか。何か気づくことはありませんか。

そうです。流域に隔てられた陸地の構造が見えますね。流域が連結しているということは、同時に陸地が水に隔てられているということでもあります。地図をよく見ていただければわかるように、流域の陸地は全てが半島であると言い切ることができます。鹿島半島、行方半島、出島半島、このような半島が存在しています。霞ヶ浦南岸の稲敷も、霞ヶ浦*と利根川に隔てられた半島、稲敷半島とみなすこともできます。
 



不思議なことに、これらの半島状の陸地を、この地の人々は古来から半島とは呼びませんでした。ただ、水際に隔てられたそれぞれの陸地を鹿島、行方、出島、稲敷(古くは信太)、十六島などと呼んできたわけです。このうち、十六島は近世に入ってから出現してきた新しい陸地です。十六島は独特な成り立ちをした陸地で、これについては機会を改めて触れることにしましょう。

おそらく、舟運を当たり前としてきた相互の社会的交渉が半島という認識を生まなかった背景にあるのではないかと思われます。霞ヶ浦*の下流域が後に水郷と称されるようになったことからもわかるように、水の際=連続した地域という意識が強く働いていたとも考えることができます。今もなお、世の殆どの人が、これらの陸地を半島とは考えていないのではないでしょうか。
 


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撮影日: 1998/11/22 北浦上空から見た鹿島


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