潮来市延方(徳島新田)の田圃を抜けて米島から徳島方向へ進みました。広大な水田地帯ですね。現在でもこの地を徳島新田と呼ぶのかどうかはわかりませんが、歴史的には江戸時代、潮来と延方から徳島に移住した人たちが開発した新田と伝えられています。開田前は、土砂が堆積して出来た洲の土地でした。水郷・潮来の中では、最も面積の広い水田地帯となっています。(徳島新田の)「開発は慶安二年(一六四九)から行われているが、勝訴によって所属の確定した翌延宝元年(一六七三)からは本格的な開発が行われ、藩は入植屋敷地二十人分とその家屋を造成し、延方村と板久村から移住させた。(略)水戸藩最大の開発高をもつ徳島新田が開発されたのである。ここは享保以降開発の停滞期に入った水戸領で例外的に増大したところで、この増大は水郷地帯の新洲の形成、その開発にあったと言われる」 (『茨城県史・市町村編III』、茨城県史編さん市町村部会、pp.126-127)
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