過去に桜川下流の河川付け替えが行われたことは、あまり知られていない事実です。土浦城の城主だった土浦郷の若泉三郎という豪族が、土浦の水害対策として1459年から3年間をかけて筑波川(現在の桜川)の大規模な河川付け替え工事を行ったと伝えられています(永山正著『土浦の歴史』、東洋書院、1982年による)。現在は埋め立てられた旧川口川がその当時の桜川の旧川筋になります。銭亀橋は、その河川付け替え後の100年以上を経過した1613年(慶長18年)、水戸街道に沿って桜川に架けられました。しかし、そのさらに下流となる本流は現在の川筋とは異なっていたようです。「幕末の土浦附近谷原図を見ると、桜川という名称はない。銭亀橋下流をずっとたどると、川口から三百九十一間の処で二つの流れに分かれている。現在桜川とよんでいる方の流れは、太郎兵衛川で桜川本流は右に流れ、八郎兵衛谷原と山口谷原の間で中須にぶつかり、二つに分かれて霞ヶ浦に入っている。」 (保立俊一著『水郷つちうら回想』「旧桜川について」、筑波書林、1994年、pp.28-29)
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