『常陸国風土記』は、養老年間(717〜724年)に成立したと言われています。『常陸国風土記』は、常陸国が、新治(にひばり)・筑波(つくは)・信太(しだ)・茨城(うばらき)・行方(なめかた)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の8つの郡(こほり)から成ることを説明しています。この中で、「霞ヶ浦」は「流海(ながれうみ)」と呼ばれ、水域によって「佐我(賀)の流海」「行方の海」「榎の浦(えのうら)の流海」「信太の流海」と呼んで、郡の位置関係を説明しています。 富士見塚古墳公園にある上の古代地図は、『常陸国風土記』より古い時代のものと思いますが、それほど大差なかったのではないでしょうか。当時、霞ヶ浦は太平洋の入海になっており、浮島(現在の稲敷市(旧桜川村))では「住民たちは塩を焼いて生計をたてている」と記されています。現在の筑波山麓や埼玉県にまで海が広がっていたのですね。 参考文献:『常陸国風土記』(『風土記』吉野裕訳、平凡社、1969年)
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