『常陸国風土記』は、「流海(霞ヶ浦)」についてはあまり触れていませんが、高浜についての言及は目を引きます。「郡役所の西南のかた、近いところに河がある。信筑(しづく)の川という。水源は筑波の山から出て西から東へ流れて、郡の中を経めぐって高浜の海に流入する。」 「信筑の川」とは今日の恋瀬川のことです。現在の石岡市高浜は当時は海底だったと思われますので、どのような地形か想像しにくいところがあります。 「花かおる春のよき日には駕(のりもの)を命じて出向き、木の葉散りしく秋の涼しい候には舟に乗って遊ぶ。春はすなわち浦の花は千々に咲きみだれ、秋は是れ岸の黄葉百(もも)に色づく。[春ともなれば]歌をうたう鴬を野のほとりに聞き、[秋ともなれば]舞をまう鶴を海べのなぎさにみる。農夫の子と海人の娘は砂浜を逐いはせて群れつどい、商人と農夫は小舟に棹さして行き交う。」 「詠われている歌にいう、 高浜に 来寄する浪の 沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば またいう、 高浜の 下風(したかぜ)騒(さや)ぐ 妹(いも)を恋ひ 妻と云はばや しことめしつも」 引用文献:『常陸国風土記』(『風土記』吉野裕訳、平凡社、1969年)
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