江戸時代、霞ヶ浦・利根川流域で広域に干拓が行われた後、明治時代以降も霞ヶ浦では干拓が続きました。比較的大規模なものとしては、本新島干拓(現在の茨城県稲敷市(旧東町)一帯)があります。干拓が推進された背景としては、1918年に起きたいわゆる「コメ騒動」、第二次大戦後の食糧難があります。コメ騒動以後に627ヘクタール、1947年の土地改良法施行後に2,700ヘクタール、合計3,327ヘクタールが新たに干拓されました(注1)。広大な利根川流域の干拓は江戸時代に一旦終了しており、大正以後の干拓は局部的で比較的小規模なものです。第二次大戦後の最大の干拓地となった八郎潟干拓地の面積が中央干拓地、周辺干拓地を併せて17,203ヘクタール(注2)ですから、霞ヶ浦の干拓は小規模とは言え、それでも相当に大きいことが数字からもおわかりになるでしょう。(注1)『ひとと湖とのかかわり―霞ヶ浦―』pp.55-57 (注2)大潟村のパンフレットによる
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