1960年代後半、霞ヶ浦高浜入干拓事業が推進され、1978年、この事業は中止に至りました。霞ヶ浦高浜入にさきがけて、1960年代に干拓が進められた八郎潟では、1966年、大潟村への第一期入植が始まり、機械化による大型農業が日本のモデル農業の姿として宣伝されていました。当時、小学校低学年だった私は、子供心にも現代化された大潟村の農業に憧れを持ち、霞ヶ浦でもアメリカの農場で行われているような大規模農業が始まるのかと思っていたものです。現在でこそ、環境保全の大切さが認識されていましたが、当時は開発=美徳という風潮であったことが思い返されます。高浜入干拓事業は、1960年、農林省の計画として発表され、1967年には、茨城県行方市(旧玉造町)に「高浜入干拓建設事務所」が開設され、工事着工が決定されました。この後、地元漁民に対する漁業補償が実際に行われ、干拓が始まる計画でしたが、農政はコメ自給から減反政策へと転換し、1973年のオイルショックによる計画の延期、地元住民の干拓阻止運動などにも合い、結局、1978年に干拓中止という決定に至りました。
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