石岡市府中五丁目・国分寺
「国指定特別史跡 常陸国分寺跡」
所 在 地 石岡市府中五丁目一番
特別史跡指定年月日 昭和二十七年三月二十五日
国分寺・国分尼寺は、天平十三年(七四一)聖武天皇の詔勅により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた寺院である。
国分寺は、金光明四天王護国之寺といい、金字金光明最勝王経一部を安置した七重塔を設け、常住の僧二〇名と、最勝王経一〇部を置いた。寺院の財政は、封戸五〇戸、水田一〇町によってまかなわれた。
常陸国分寺は、昭和五十二年の発掘調査により、現本堂西側に鐘楼基壇(鐘つき堂の基礎)が発見され、次いで、昭和五十六年から二次にわたる発掘調査では、各伽藍(土塁建造物)の基壇の規模が明らかにされた。特に金堂跡については、現在残されている基壇の約四倍の規模をもつことが明らかになり、大建造物を有する寺院であった。
近年の研究では、今まで判明していなかった七重塔の位置が、寺城東側に推定されている。寺城は、東西約二七〇メートル、南北約二四〇メートルの規模を誇っていた。
常陸国分寺跡発掘調査で出土した遺物は、瓦が主体であるが、その中でも、創建瓦(?弁十?蓮?文軒丸瓦)は、平城京羅城門跡で発見された軒丸瓦と同系の??であることが注目される。これは国分寺建立に際し、当時の政府が瓦工の??などを含む、技術指導をしたことを物語っている。
昭和六十年一月
石岡市教育委員会
石岡市文化財保護審議会
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