タイトル: タイトル一覧・霞ヶ浦の自然 動植物・地域歴史・筑波山・自然ほか: 恋瀬川/恋瀬川源流・霞ヶ浦水系 市町村: 石岡市 (登録日: 2004/03/08 更新日: 2011/12/10)
◆恋瀬川は古代からロマンの川◆romantic river Koisegawa恋瀬川は常陸の風土記で志筑川と呼ばれていた。筑波連峰より湧き出る水が集まって川となり、常陸国府の近くを通り、高浜へと流れる。登筑波山歌一首並短歌。草枕、旅の憂を、慰もる、事もあらむと、筑波嶺に、登りてみれば、尾花散る、師付くの田井に、雁がねも、寒く来鳴きぬ・・・・反歌筑波嶺の裾みの田井に秋田刈る妹がり遺らむ黄葉手折らな。(万葉集) 森本治吉。高橋蟲麻呂,青梧堂、昭和17年このほか、続後拾遺和歌集1326年(嘉歴元年)に恋瀬川うき名をながす水の上も袖にたまらぬ涙なりけり(今瀬文也、文学の中の茨城)この他、恋瀬川や桜川、かすみの浦等を歌った歌が多くある。藤原の宇合や高橋蟲麻呂が公用で常陸国府を訪れ、筑波山に登って、川や景色を素晴らしいと感じた事は現在にも通じている。恋瀬川は中世時代もかなり府中城主等によって改修されている。昭和20年代の頃であったろうか、川は、下流域で真っ直ぐに直され、堤防が築かれた。工事の時は、多くのトロッコが連なってゴーゴーと音を立てていたのを記憶している。それ以前は、台風がくるたび河川があふれ、道路や田が冠水した。私の幼少時代それはちょうど一面が海みたいになった事を記憶している。沢山の鮒などが田に残され、バケツで捕らえて川に戻したり、ため池に放したりした。最近は冬季田が乾田化して、メダカや、ドジョウ、蛙、タニシ、蛍、ヒル等がみられなくなったのは寂しい。田に通年水を通しておくと大きな浄化能力があるそうだ。私たちの時代になって、太古から続いた自然のサイクルを放棄してしまった。私たちの幼少時代は、ザルや、バケツ、網を持って大勢の男の子や、女の子まで自然に親しんだ。また、恋瀬川では夏多くの少年たちがあふれるほどのモクのなかで水浴びをした。付近一帯ではオイカワのことをヤマベと呼び、キャベツに付いた青虫などで釣り糸を恋瀬川に垂らすと、多いときは100以上も釣れた。