カテゴリ: 筑波山/筑波嶺/筑波山と霞ヶ浦 タイトル: タイトル一覧・霞ヶ浦の自然 動植物・地域歴史・筑波山・自然ほか: 霞ヶ浦流域の歴史と史跡 市町村: つくば市 (登録日: 2007/03/28 更新日: 2011/12/10)
蚕影山神社 蠶影神社(こかげさんじんじゃ)やはり筑波神郡の景観は神聖なイメージ【鎮座地】つくば市神郡(田井地区)【祭神】】稚産霊命(わかみむすびのかみ)、左右に埴山姫命(はにやまひめのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)崇神天皇時代に祀られたと伝えられる。(筑波山・岩上方外明治37年、交通世界社刊)成務朝時代筑波国造りが赴任されると同時に養蚕や農業の発展に力が注がれ、豊浦に稚産霊命が祀られた。このころ山の麓に蚕影山桑林寺が建立された。(茨城県神社誌)この神郡村館地区にあった蚕影山桑林寺は廃仏毀釈により廃寺となった。(茨城県の地名・平凡社) 神社はつくば市神郡にあって筑波山がすぐ近くに聳えている。養蚕の神社の始まりで麓のひとの話によりますと以前はかなり遠くからバスなどでも参拝の人々が訪れたそうです。神社には多くの奉納額が飾られているが中に絵額で興味深いものが1枚目立った。奉納者は長野縣信濃國小縣郡神川村大字国分 國分蠶業會社員蚕種製造人山邊六兵衛とあり、年代がわかると面白いが今回の写真からは判読できなかった。神川村は現在は長野県上田市神川で此の地は養蚕のさかえたところであった。また、国分には信濃国分寺が置かれた。『養蚕秘録口伝書』、和田惣右衛門著、明治27(国立国会図書館蔵)「天竺霖異大王之事」などによると天竺の霖異大王の再婚によって姫”金色姫”がねたまれ数回遠方へ流された。はじめは獅子に助けられ、次は鷹の山で鷹に助けられた。姫がまた国に戻ったので殺されてしまったが土中より光明が輝いたので王が掘らせしめたところ金色姫は健在であった。王は驚き桑の船へ乗せ姫を流してしまった。船は常陸の国、豊良の湊へ流れ着き拾われた。姫は死後ひつにいれられたが蚕になり養蚕の始まりになったという。江戸時代には養蚕秘録という本が多く読まれたようである。『蚕影山縁起』、『蚕影山和讃』という書物もあるそうです。この額もそれを物語っていると思います。 常陸國風土記によると常陸の国は常世の国に疑いなしとされ、土も肥え水陸の産物豊富であり、養蚕も栄えていた。農耕や養蚕に力を入れる者は富を築いた。水田は石高は多かったが自然の影響を受けやすかった。このほか麻や紫ほかも多く栽培され国へ多く納めた。(栗田寛、古風土記逸文考證) 万葉集には数多くの筑波山の歌が詠まれているが筑波嶺の 新桑蠶(まゆ)の 衣はあれど 君がみけけし あやに着欲しも「巻14 東歌」