カテゴリ: 石岡市歴史紀行 タイトル: タイトル一覧・霞ヶ浦の自然 動植物・地域歴史・筑波山・自然ほか: 霞ヶ浦流域の歴史と史跡 市町村: 石岡市 (登録日: 2007/02/01 更新日: 2011/12/10)
佐久良東雄旧宅 (国指定文化財 史跡) 指定年月日 昭和19年3月7日所在地 茨城県石岡市浦須314-1建てられた時期 江戸時代後期と推定される。 勤王歌人佐久良東雄の生家。佐久良東雄は文化八年三月二十一日此の地、林村浦須で父飯島平蔵の子として誕生した。幼名は吉兵衛、十五歳の時近くの寺、林村にある真言宗宝山寺派観音寺に入り康哉法師に師事し仏弟子となり、名を良哉、字を高俊と改めた。ここで康哉に師事し万葉歌他を習得した。康哉は雨引山楽法寺第二十世僧恵岳などの学統をうけて万葉の研究に従事したので「万葉法師」の別名があった。良哉入山の文政八年師の康哉は真鍋村(現土浦市)の善應寺に第十七世住職として就いた。文政十二年康哉は再び観音寺に戻る。良哉は仏道修行のため大和の真言宗宝山寺派本山長谷寺で修業となった。天保三年春師は病に伏し三月八日遷化した。良哉はその前に奈良から呼ばれた。師の最後の看取りの少し前、師は良哉に墨をとらせ辞世の歌を残した。師は良哉に蔵書すべてを贈った。良哉はその後観音寺の僧や真鍋の善應寺の僧を経て住職についた。色川三中、長島二左衛は親友であり、藤森弘庵、藤田東湖、櫻任蔵、加藤櫻老、島男也は交友であった。その後、天保十四年五月善應寺僧を辞し東国をあとにし江戸、矢ノ倉に住し国学の研究を進める。この頃水戸藩奥医師鈴木玄兆の娘輝子と婚姻す。弘化二年九月、佐久良東雄三十五歳で京都から泉州にて数年を経、大阪北久宝寺に住し座摩神の祝部となる。後、安政元年末(四十四歳)佐久良は京都に出、妙法院ノ宮に奉仕し中奥席格になり静と名を改める。安政五年三月神祗伯白川資則の門に入り神祗道學師の称号を授けられた。萬延元年三月三日桜田門の変で其の徒高橋多一郎親子を匿り、佐久良は幕史の察知するところとなり三月二十一日東町奉行所に引致された。そして、四月二十四日大阪を発ち江戸伝馬町に送られたが病んで獄中に死す。一説に食を絶ち死すと。【参考文献】佐久良 東雄、望月茂著 大日本雄弁会講談社 s17。贈従四位佐久良東雄大人略伝、編纂兼発行 吉田弥平 s12