カテゴリ: 桜川市の自然/歴史/文化ほか タイトル: タイトル一覧・霞ヶ浦の自然 動植物・地域歴史・筑波山・自然ほか: 霞ヶ浦流域の歴史と史跡 市町村: 桜川市 (登録日: 2007/03/05 更新日: 2011/12/10)
鴨大神御子神主玉神社(かもおおかみみこかみぬしたま神社)(鴨神社)桜川市古来の神社延喜式内小社。新治郡三座の一。加茂部の由緒桜川市岩瀬、鴨神社は水戸線羽黒駅から直線距離で約1.5km(道路では約2.5km)の自然に囲まれた場所にある。岩瀬は磯部稲村神社や富谷観音、月山寺ほか、数多くの名所旧跡がある。JR.水戸線の駅は"岩瀬"と"羽黒"があり、水戸方面三駅先が笠間である。鴨神社の数百メートル先には北関東自動車道が通っている。鴨神社は常陸国新治郡三座の一つの延喜式内小社である。佐竹氏、足利氏、宍戸城主宍戸四郎他の信仰が厚かった。阿部氏討伐のため源頼義が鴨神社に祈願した。康平5年(1062) 前九年の役で源頼義・義家の軍は安倍貞任・宗任の軍をおおくの年月をかけて滅ぼした。 境内にある塙瑞比古氏撰和歌碑、藤原光俊の和歌はこの戦勝から約100年後の歌と推定される。妖術使いの鬼婆 〔義家が東北へ討伐に赴く前、鴨神社に祈願したとき神社のまわり37町村で恐れられていた腹の子を食う妖術使いの鬼婆を竹やりで退治し鴨神社の鳥居にかけた。と伝わる伝説がある。〕《岩瀬町史研究第五号・加茂部/前川康司氏から》神社法人(旧郷社)【鎮座地】桜川市加茂部字明神山六九四【交通】水戸線羽黒駅から道路で二・五キロ【祭神】主玉神、太田々根子命、別雷神【境内神社】〔摂社〕鹿島神社(武甕槌の命、明治六年素戔嗚命を合祀本殿の東)日枝神社(大山咋命、明治六年天照大神、日本武命を合祀、本殿の西)〔末社〕大杉神社(大物主命〔石〕向つて左)八幡神社(誉田別命)琴比羅神社(大物主命)天満天神(菅原道真公)白山神社(伊弉那岐命、伊弉那美命、菊里媛命本殿の後向つて右)春日神社(天児屋根命、向つて右)稲荷神社(倉稲魂命)◆【由緒沿革】延喜式内小社。新治郡三座の一、嘉祥三年六月官社に列す。(文徳実録)貞観三年九月二十三日従五位下から従五位上にすすむ(三代実録)寛平九年始て臨時祭厳修其後数度勅使あり。康平五年源頼義勅命を奉じて安部貞任討伐の途上本社に戦勝祈願、大任遂行しての帰路同六年八月社殿を修営し、薙刀、銀銚子等奉納、加茂一村を神供料にあてる。(棟札)元久元年鳥羽、白河、後白河三帝起請の旨に依て大嘗会役夫工米及雑役免除となる。貞永元年十一月源守吉神主となる。元弘三年七月社領安堵の勅下る。 応永二十一年宍戸城主宍戸四郎義利修営、文和三年(北朝)九月十九日来迎院主舜円等の尽力で大般若経六百巻が揃ふ。永享十二年三月四日結城合戦戦勝奉賓に足利安王丸郡内一所を神田に寄進。永禄十二年八月佐竹義重社殿修営、子義宣の名弘め式を行ふ。供奉の人々の休息処を佐竹野原と呼ぶ。慶長七年徳川幕府神領三石を寄せ、正保年中笠間城主井上河内守「鴨大神御子神主神社」と奉額、其後の城主牧野氏も当社を厚く崇敬、春秋の祭典に奉幣。延宝五年十月二十日当村の足立惣左衛門等の合力で大般若経の修覆あり。明治三年牧野氏扶持米十俵を寄附、近郷四十ニケ村の総社と仰がる。明治六年村杜。同十二年四月十一日祠掌訓導加茂部守行等郷社加列の請願をし同年六月四日郷社に列格、同三十年六月西茨城郡長正七位勲六等牧野正倫、笠間住刀工高木正行謹作刀一振と長歌を奉る。同四十年五月二十日(第二四四号)供進指定。昭和二十七年十月十五日宗教法人設立。【神紋】日の丸五本骨の扇(佐竹公造営の時榑風にうつ)【由緒碑】(昭和三十二年三月十七日、県神社庁長塙瑞比古氏撰)和歌碑「あほい草諸葉の山のほととぎすなれてみあれの頃やまつらむ」境内接続東南方の山を諸葉山と云ふ。藤原光俊朝臣詠、檜の生鳥居、道標(参道入口、みかげ石)《参考・茨城県神社誌》【由緒】加茂大明神という(二十八社考)。鴨大神の御子神の主玉神を祭る(文徳実録、三代実録)。《参考・新編常陸国誌》◆鳥居のない理由【神門】神社には鳥居がない。一の神門は桧、二の神門は榊の木である。これは東北に反乱があり勅命を受けた伊予守源頼義が奥羽に往く途中この神社に武運祈願し、奥羽を平定の帰路神社を新築したが鳥居は新造しなかった。その時から鳥居がない神社となった。(奥羽に往く前、此の地で腹の子食い婆を退治した伝説が書かれている)また、由緒沿革について元禄七年由緒書・加茂明神社に・延喜式内小社 新治郡三座の一・嘉祥三年(850) 官社に列す。他に多く列記されているが此処では省く。《岩瀬町史研究第五号・加茂部/前川康司氏から》