土浦市中央二丁目・幸福稲荷
「祇園町と幸福稲荷の由来」碑
旧祇園町(現在の中央二丁目と川口一丁目)これと一体をなしている幸福稲荷神社が、いつどうしてできたのであろうか。この事を知る人も次第に少くなっている今日、聊か一文を草して、その由来を明らかにして置きたい。
そもそも旧祇園町一帯はもと旧桜川の下流である川口川の河床で、かつては高瀬船の帆柱が林立する盛況だったところで、常磐線の開通で舟運は衰えはしたものの昭和の初期迄多少その機能を残していた。ところが大正十二年関東大震災が起り、その避難民のためバラックが現在の京成百貨店前の川岸に四十七戸建設された。折柄日本一の繭の取引量を誇る豊島繭糸市場への出荷人や車、それに駅に通ずる道路とあって賑わっていた。
しかし川口川は上流の流水が乏しく、汚水化して町の美観上からも、又土浦駅と市の中心地区を結ぶ道路の狭隘を克服する必要上、之を暗渠にして埋め立て、町のショッピングセンター的なものにしようと発案し、且つその実現に奔走したのが、時の県会議員で土浦町長だった萩谷徳一氏であった。萩谷氏は常陸太田市の出身で、京都堀江警察署長から迎えられて、若冠三十八才にして土浦町長に就任したという逸材で、立志伝中の人物であった。彼は、町長在任中附近町村合併を進め、昭和十五年遂に土浦市制施行を実現させた。
一方昭和五年川口川の一部(現保立食堂から小網屋川口店まで)埋立案を縣会に提出し、一旦は否決されたが翌六年天谷丑之助縣会議長の下での縣会で可決承認となった。翌七年早速藤川捨吉氏請負工費六万円で埋立工事に着手した。そして昭和九年完工、続いて藤川捨吉、蛭田吉次郎、中沢清之助、石島棟三氏らの請負で、埋立地に商店街の建築が初〔始〕まり十年二月三日、五十三戸が完成した。設計は在京の楠岡技師であった。こうして川口川は幅三メートル、高さ三メートルの暗渠にして地上から姿をかくし、土浦の盛り場が忽然として出現した。
新市街は町営土浦公営市場が正式の呼び方で、町名は公募によって祇園町と決まった。先に取払われたバラックの居住者を含め全戸入居完了、同時に町のシンボルとして幸福稲荷神社が遷宮され(京都伏見稲荷神社の分神で、幸福稲荷の社号も同伏見稲荷神社から賜ったものである)昭和十年六月一日、官民八百名参列の上で開場祝賀式が挙行され、はなばなしく発足したのである。おそらく萩谷町長が京都四条の盛り場にならったものであろう。
自家発電自家水道まで備えた当時としては土浦に過ぎた新市街でショッピングと言い〔え〕ば祇園町というくらい繁昌し土浦の新名所となった。やがて天谷虎之助市長時代千八百万円で土地の払下げお〔を〕実現し今日に至ったのである。
滄桑の変という言葉があるが、旧川床変じて市内随一の商店街となったことの次第を記し、一は当時これが実現に全力を尽した先人の功績を称えると共に、後人のため石に刻み永くこれを伝えんとするものである。
なお先に建立された幸福稲荷社殿は惜しむらくは昭和四十九年秋放火により焼失直ちに再建の議が進められ、昭和五十三年八月新築落成し、社殿鳥居玉垣等旧に倍して荘厳さを加えることになった。
因みに鳥居の題字は関東銀行頭取渡辺幸男氏(東大出身)の揮毫をわずらわし、鳥居の玉垣工事は笠間市稲田柴沼省一石材工業所、社殿は土浦市川口一丁目内野茂工務店、手洗、家根及雑工事は土浦市田中町沖山章工務店?戸ポンプ工事は土浦市大町岩瀬安太郎ポンプ店等がそれぞれ工事を分担し完成したものである。追録して永くその功を伝い〔え〕たい。
昭和五十三年八月一日
建碑発起人
幸福稲荷神社総代 飯田 操
祇園町商業協同組合理事長
茨城県南西議長会長
茨城県議長会副会長
土浦市議会 議長 寺内龍太郎
永山正氏撰之
(注釈)
・採録碑文中の〔〕に誤字の正字、訛り表現に代わる標準語表現を補いました。
・「ショッピングと言いば」「その功を伝いたい」のように、「え」が「い」となっているのは、この地方の訛り音によるものと思います。
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