常陸国衙(国府の役所)がどこにあったかは諸説がありましたが、今日では現在の石岡小学校の敷地とする説が有力です。石岡市教育委員会の説明板によると、「昭和四十八年、石岡小学校の校舎改築に伴い、校庭の中央部付近の発掘調査が実施され、多くの柱穴が発見され」ました。これが国衙の跡と考えられています。国衙を中心とする常陸国府という古代都市がどのように広がっていたかについては諸説ありますが、常陸国が大国であったことから、その規模も大きなものであったようです。ある説の推定地図を見ると、国府の北西は現在の若宮三丁目、北東は府中三丁目、南西は総社一・二丁目、南東は国府七・五丁目辺りにまたがった広大な区画にあります。これは、近代の石岡町の市街地とほぼ同じぐらいの広さです。石岡市街の道筋は比較的直線状のものが多いのですが、これらの道筋の多くが当時の国府の条里制の道筋と重なっているようです。国衙のすぐ裏手には恋瀬川の低地が広がっていました。当時はもしかすると、高浜の海の流域ないしは低湿地帯だったかもしれません。
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