石岡市府中五丁目・国分寺
「市指定有形文化財 都々一坊扇歌堂(建造物)」
所 在 地 石岡市府中五丁目1番
指定年月日 昭和五十三年九月十一日
都々一坊扇歌は、文化元年(一八〇四)医者関玄業の子として、久慈郡磯部村(常陸太田市磯部)に生まれ、幼名を子之松、のちに福次郎と改めた。幼少の折、病により失明同様となったが、芸の道を志し、二〇歳のとき江戸に出て、船遊亭扇橋の弟子となった。その後、寄席芸人としての修行が続き、天保九年(一八三八)一枚看板をゆるされ、当時流行していた「よしこの節」「いたこ節」などを工夫して、新しく「都々逸節」を作り都々一坊扇歌と名のった。
扇歌は、高座にあって聴衆からのナゾかけを即座に解いてしまう頭の回転の早さが、江戸庶民の評判になったというが、当時の政治や社会を批判したため、江戸追放の身となった。その発端となったのは、「上は金 下は杭なし吾妻橋」の一句であった。
江戸を追放された扇歌は、姉の稼ぎ先府中香丸町の酒井長五郎の旅宿に身を寄せ嘉永五年(一八五二)四十八歳で没した。
昭和十年、都々一坊扇歌を記念し、町内有志の呼びかけにより扇歌堂が建立された。
昭和六十年一月
石岡市教育委員会
石岡市文化財保護審議会
|