タイトル: タイトル一覧・霞ヶ浦の自然 動植物・地域歴史・筑波山・自然ほか: 霞ヶ浦流域の歴史と史跡 市町村: 石岡市 (登録日: 2004/04/06 更新日: 2011/12/10)
石岡の陣屋門・茨城県指定有形文化財(昭和43.9.26指定) ●現在の陣屋門は文政11年(1828)府中藩陣屋門として建造された。写真は移転前の写真。 府中藩松平家は徳川家康の子頼房(水戸徳川家初代)を父とし、五男頼隆が元禄13年府中藩初代藩主となった。頼隆は水戸黄門(光圀)の弟でもあった。頼隆は寛永6年(1629)生まれ、70歳をまわっていた。頼隆は正保3年(1646)播磨の守、はじめは光圀より久慈郡内に2万石を分知されていたが幕府から二万石を賜り大名となった。府中領は常陸領(新治郡7ヶ村、行方郡9ヶ村、茨城郡3ヶ村)陸奥の国長沼領(岩瀬郡18ヶ村)とに分かれ双方に府中藩陣屋をおいた。府中松平家は水戸徳川家と同様に定府と定められ参勤交代はなかった。藩士の数は明治維新の時は約200名であった。○石岡市民会館建設と陣屋門昭和41年7月石岡史跡保存会に県指定文化財の陣屋門が移転されるという知らせがあった。この2ヶ月後、8千人の市民が陣屋門保存会の会員となり、工事延期を申し入れたが翌年市民会館の建設工事は着手された。市民会館がオープンしたのは昭和43年4月。昭和43年9月、陣屋門は県指定有形文化財として史跡から建造物へと指定変更され、昭和44年3月3月移転工事が行われることになった。(この項の参考、水と緑のまち石岡 寺田広・今泉文彦他太平堂出版、平成3年)そして、 数十メートルであるが陣屋門は移転された。○国府−府中−石岡の云われ石岡小学校の校庭一帯は天平時代常陸の国の国府が置かれていたところと伝えられている。最近発掘が数次にわたって進められている。建久4年(1193年)に大掾義幹が滅びこの頃から国府は府中と呼ばれるようになった。石岡の地名も其れ古く、建武5年(1338年)税所文書に府中石岡城之間と見える。また、常陸大掾伝記(建保2年)にも石岡城是なりとあり、暦応2年(1339年)同じ税所文書に常州府中石岡城警固と見える。(茨城県の地名 平凡社1983年版)国府−府中−石岡は古い歴史の地名である。