タイトル: タイトル一覧・霞ヶ浦の自然 動植物・地域歴史・筑波山・自然ほか: 霞ヶ浦流域の歴史と史跡 市町村: 石岡市 (登録日: 2006/12/20 更新日: 2011/12/10)
高野素十と昭和20年代高浜の句高野素十は昭和20年代によく高浜付近を訪れていた。泥臭い田んぼ、霞ヶ浦沿岸の自然のひとと景観をこよなく愛した。気心の知れた句の仲間と湖畔を歩きながら多くの句を詠んだ。句は写真を広げた以上に様子が胸に伝わって来る。高浜句会参加の方で故人になられた方もおられるが現在も健在で活躍してるいるひともおられるという。最近、当時の参加者で高浜在住の”千代子”さんにほんの少しの時間であったが面会する機会を得た。素十は昭和20年中頃から年1〜2度ぐらい高浜〜潮来付近を訪れていたそうだ。素十は高浜や潮来の景色、特に夜は霞ヶ浦に映る月を見るのがお気に入りだったようだ。高浜の湖岸にある泉荘で良く句会が開催された。次に紹介する句は昭和27年第36回「白萩会主催白萩探勝会・高浜付近」の句で「第一回・・高浜・・・いづみ荘」 とある。参加者は素十、てる子、美代子、千代子、ひさ子、和子、双刀、雨滴、ひろ志、厚、の名と句が連ねている。以下はそのときの素十の句である。探勝会のガリ版刷りが二つ折りの閉じてないものでバラバラなのでもすこしの検討が必要かも知れないが当時の霞ヶ浦が偲ばれる。太平洋戦争のあとの混乱期に霞ヶ浦の自然を鋭く捉えている。◆湖の村掛稲に鴨がつく◆かかへくる鴨のつきたる稲束を◆湖の短き稲を刈りて掛け◆流れゆく浮藻の紅葉こまごまと◆ここに又枯蓮風に賑やかに◆北風の湖の又色変わる◆湖の筌鳰も入る鴨も入る◆船頭の放る襟巻美しき◆寒鮒を釣りに来たりし縁とかや 素十∴湖の筌・・「うみのうけ」 と読むのでしょうか、古代の漁法は沿岸で石などを利用して魚を寄せるところ、霞ヶ浦では沿岸に網が張り巡らされています。または、「うみのせん」でしょうか。丸い大きな魚を捕るかご、ふなせん、こいせん等のことでしょうか鳰(におどり)かいつぶりはこの辺では当時”ムグッチョ”と呼ばれていました。鴨もムグッチョも当時はいまと比べられないほど多くいました。ムグッチョのなき声はそれはそれは賑やかでした。こいせん、ふなせんの間を鴨やかいつぶりが湖に潜ったり出たりしているさまを詠んだのでしょうか。こいせん、ふなせんは湖岸近くのモク(沈水植物)の間に竹竿につながれてたくさんありました。 霞ヶ浦は常陸國風土記行方郡の項に郡の南二十里に香澄里ありとあって諸説によると「霞ヶ浦」と呼ばれる起源になった。琵琶湖はむかし「におのうみ」と呼ばれていました。また、「にお」は滋賀の枕詞でもあったようです。たしか、万葉集にも「にお」が詠まれていたようにおもいます。この日の夜、場所を変えての句会もあったようです。また調べて追加します。●《古刹観音堂ほか。俳人高野素十がよく訪れた高浜と霞ヶ浦》へリンク(サイト内)