石岡市総社一丁目・石岡小学校
「常陸のみやこ 一千有餘年之地」
この石岡小学校敷地一帯は、今から約一三〇〇年前に常陸国の国衙が置かれた場所と推定されています。この国衙を中心として、現在の石岡市全体を領域とする常陸国府としての古代都市が建設され、常陸国の政治・経済・文化の中核的な役割を果たしました。
しかし、この繁栄を極めた古代都市は、一〇世紀半ばに起った平将門の乱によって破壊され、やがて、この地には南北朝時代から戦国時代にかけて、大掾氏によって府中城が築城されました。大掾氏滅亡後、幾人かの領主が交替しましたが、何れもこの府中城の地に支配の拠点を構えました。そして、十八世紀の初頭、水戸徳川家の御連枝府中松平氏の領地となってこの地に府中陣屋が建設され、明治維新に至る約一六〇年間、その支配が続きました。
近代になると、この一帯には教育施設が相次いで建設されました。まず明治六年に石岡小学校が開校、明治四十三年に新治郡立農学校(現在の石岡一高、のち大字石岡に移転)、大正元年に石岡実科女学校(現在の石岡二高、のち府中五丁目に移転)、そして昭和二十二年には石岡中学校(のち東石岡四丁目に移転)が開校しました。
このように、この地は石岡の枢要として古代から近代に至る歴史を重層的に担ってきたのです。ちなみに、この石碑の位置は、中世府中城の土塁であり、昭和戦前期に、石岡小学校の奉安殿が建てられていた場所です。
平成八年八月
石岡市教育委員会
石岡市文化財保護審議会
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